つれづれケトルベル 還暦編

移転してきました。よろしくお願いいたします

2010年5月24日も

今夜は、都合3度もブログ入力中、データを消してしまった。何故?
今日は小雨、外出の用事無く、見積もり作成、役所届出書類作成、明日の定例会議資料、各種アポイントなど、昼食のみ小諸そばへ。ひれかつ丼そばセット590円也。
いつものように2210分帰宅
1)ケトル
16kgスイング左右1回交互に連続100
24kgミリタリープレス右5左5右5左5右5左5右5左5右5左5右5左5
16kgミリタリープレス右10左10右10左10
木刀素振り100本
2)「二十世紀日本の戦争、阿川弘之猪瀬直樹中西輝政他、文春新書」読完、大東亜戦争よりも、第一次大戦が日本及び欧米列強に与えた影響に興味を持った。欧州だけで1000万人死んだ一次大戦に学んだ国、学ばなかった国。イメージ 1
3)ラッシャー木村さん亡くなる
・幼稚園のころからプロレスファンであった。もちろん日本プロレスしかなかった当時、 国際プロレスは新鮮だった。昭和431月の正月休みから始まったTv中継を初回から見ていた。ビルロビンソンに象徴される、技の応酬のヨーロッパスタイルが売りであったが、相撲出身で、頭突きとチョップが得意な木村さんはちょっと雰囲気が違っていた。1982年頃は、国際プロレスも風前のともしびで、新日本のマットにちょっかいを出していた。漫画の「議員レスラー ヨッシャー木村」が連載中のころである。木村さんが都内潜伏中と東スポに出ていたそのころ、秋の代々木上原の住宅街を歩いていると、木村さんに出会った(私は当時下北沢に下宿していたので近所)。リング場とは異なり、カウボーイブーツ姿で、大変おしゃれであった。わざとか?道の端の高い所に立って、背を高く見せようとされていた。悪役というイメージでは全然ない、学生にも丁寧な話し方をされる方であった。それが、最初で最後の木村さんとの出会いであった。ご冥福を祈ります。合掌